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2005年 05月 08日
深緑の樹木が遠くまで出掛けなくても足元まで鮮やかに忍び寄り眼にしむ好季節になりました。その後、如何お過ごしでしょうか。
私は昨年四月五日に六時間に及ぶ大手術をして以来まる一年を経過しました。その間に、貴女を始め皆様からお寄せ戴いた心温まるお見舞いの数々は、沈みがちな私の気持を大変勇気付けて下さいました。本当に有り難うございました。心からお礼を申し上げます。 自分で種をまき無茶苦茶な育て方で作り上げた自分の病気なのに快感というものは露程も表れず不快指数のみが日毎に増す現状に程々手を焼く至極当たり前の出来事をぼやいています。隔世遺伝で二人の祖父も一緒だと思うと「酒好き遺伝」を受け継いでいる貴重な後継者だと自負する、どうしようもないわたしが今日も歩き続けています。 こんな日々の生活の中で妻子、孫から沢山のエネルギーをもらって癒しの薬として大切にしています。また病院の先生を始め看護師さん職員の皆様方の絶大なバックアップを頂き介護保険の介入や訪問看護の恩典を甘受する事が出来るようになりました。お蔭様で経済的にも精神的にも徐々にではありますが元気を取り戻しつつあります。 これまで退院後の自宅療養は、妻子の介添えが無ければ寝たきりの状態を余儀なくさせられて、その落ち込み方は計り知れないものでしたが、医療ベッド、車椅子、介護タクシー、等々の医療介護器具の活用は家族の介護負担を多いに軽減してくれています。その上に介護ケアーの方々や訪問看護ケアーの方の優しさ親切さには身に積まされ現状維持の健康目標を健康増進に切り替えました。 その暁にはボランティア活動でこれまでの、ご恩に少しでも報いたいと超デカイ夢を抱いています。音楽療養の効能が聞かれています、その一端とまでは行かぬかもしれませんが昔懐かしい私好みの名曲を退屈凌ぎにテープに収めてみました。ご笑納ください。最後になりましたが奥様や皆様方に宜しくお伝え下さい。お体に気をつけて、では又。 #
by syoshinori
| 2005-05-08 20:59
2005年 03月 02日
友人から風景画、舞子、動物、等を画いた肉筆画を頂戴した。その御礼を出しました。
素晴らしい作品有難う御座いました。3月1日(火曜日)定期の治療を受けて道草を食って帰りましたら女房がハサミを持って玄関で待ち構えてるのにギョッ。 貴殿からの封書を開けたくて開けたくて柴父の帰りを首長くして待ち焦がれて居たようです。初めての嫉妬心を覚えました。 作品の捉え方、構図、筆致どれを採っても素晴らしく見事なもので隙がないと、いっぱしの評論家振りを発揮して女房との会話を楽しみました。写生をする堀井さんの元気な姿も拝見出来て、良い日になりました。 私の最近の暮らしぶり笑ってやって下さい。 新年の挨拶や諸々の正月行事は妻子に押し付けて気侭に寝起きをするスタートを切る。毎日、抗がん剤の薬を朝と夕に2粒づつ服用しながら毎週火曜日には通院して、下腹部に挿入してある管から肝臓へ抗がん剤の注射を数種類投入、腕からは抵抗力を維持する点滴と栄養満点の点滴を2時間超かけて挿入する日々。 病院の先生は、お酒を飲むことを盛んに勧める。無類の酒好き男に断酒を命じている天の声があると心底から信じていて、天声の主の正体は奥様だなぁ! と感嘆しきり。 先生は食べる量が少ないのをカバーしようと、ビールを飲ませて高カロリーの摂取を狙う。柴父さんは良識ある方で、ミ二缶ビール1本を早朝から夜分に長い時間をかけてチビリチビリ舐めるように飲み干すタイプで無茶をするような方ではないと全幅の信頼を寄せる買い被りぶり。 愚妻は逆で飲みだすと500mlの超大缶ビール8本を水代りにして2リットル入りの芋焼酎を1日で一気にぐい、グ~イと飲み干してしまう底なしの大酒飲みで不逞の輩だと言い張る。 柴父の胃は昨年4月に切り取られて、ほんのチョッピリと申し訳ないほどに腹の片隅にくっ付いている代物。それに歳相応に嗜好品にも変化が生じても可笑しくない御年頃。飲みたいのを我慢しているのではなく恥ずかしながらアルコール類を一切受け付けなくなった情けなしの体に変身してしまったのが真相。 それに薬や注射の副作用か?高熱や痰の発生、便秘に度々苦しめられて、飲んで歌って楽しむ状態には、とてもとてもなれない。苦しみ、もがく度に愚妻は背中をさすり腹を「の」の字に撫で上げながら優しい言葉で「死にやせん」と乱暴に言い放つ。 もしや? ひょっとしたら? 大手術後に医者から柴父の余命宣告が内々に下されているのではと疑えるような妻子の献身的な仕えが気になってしようがない。 小心者の疑心暗鬼だよと言われるのも癪だから大様に構えているものの何かしなければ、何かを答えてやらねばならないと急かされる心境に毎日、駆らされ悩まされる。 そこで熟慮に熟慮を重ねた結果、これまでは「おい」とか「かかぁ」とか誰はばからずに呼び捨てにしていたが、これからは感謝をこめて名前に「さん」を付けでと呼ぶように決めた。 調子の悪い事この上なしは、お互い様のようだ。鬼の柴父から仏の柴父へ身も心も大変身した歴史的瞬間だと大きく構えれば造作も無いことだヨと悟りを開かして貰う。 聞いてください。これは決して決して、お惚気ではありません。愛妻は毎日、入浴直前には、風呂場を暖めて待機し、入浴中は背中や頭を手早く洗い流し、湯上りには肌の点検、手入れまでもしてくれる。体力が極端に衰えているので風邪や皮膚病が命取りになりかねないと愛妻はぶつぶつと口癖の持論を展開しながらです。感涙して御礼を述べる柴父に愛妻は「なんて事ないョ 金蔓、金づる!」 ちなみに昨年(2004年2月25日)の体重は69.5kg。今日の2005年2月25日の体重は 52.5kg。昨年に比べて17kgの減量で体には肉の付着は,まるでなく骨ばかりで構成されている状態。胃腸が硬くコリコリしているのが触るまでなく一目でわかるほどの見事な骨体美。 長女は勤め帰りに柴父の好物である寿司を主体に和食を、三女は高カロリーの分厚いハンバーガーを中心に珍しい日替わりパンを、ぶら下げて帰宅する毎日。血圧60~105、血糖値80の低血圧、低血糖状態を心配して食いねぇ、飲みなあぇの大サービス。 目眩や立ち眩みは鉄分不足にあると先生や看護師さんの声が海の向う、その又遥か向うに住む婿殿に聞こえたのか近代文明の機器パソコンを存分に活用して鉄分の含有率が豊かな食べ物を細かく列挙してくれる。 そればかりでなく鉄分摂取に大いに役立つと南部鋳鉄の鉄瓶と急須のセットそれに四万十川のミネラルウォターをインターネットで取り寄せてくれた。 バランスのよく取れた南部鉄瓶と急須を見詰めれば見詰めるほど親子連れの情愛を感じとり黒粒の塗りは、しっとりした温もりのある慈愛を覚えさせて心を和ませもてくれる。 南部鉄瓶で湯を沸かし、鉄の急須で毎日お茶を飲み続けたら痰の切れが良くなり便秘や目眩が解消すること間違いなしと信じて疑う余地がなくなった。これが、ある種の洗脳と言う物かともチラリと頭をかすめたけれど、この健やかさ、すっきりは本物だ。 その上に鉄分入りの牛乳と整腸ヤクルトを朝夕に1本づつ飲むことも義務化され強制される始末に柴父の内臓は鋼鉄に変化してしまうと泣きを入れたが、まだまだ大丈夫 まだいけると、のたまい鉄分攻勢を緩める気配はなし。 義兄がパソコンを手に入れたと嬉しそうに電話をかけてくる。70過ぎてからの近代文明の機器への積極的な挑戦に手放しで拍手を送る。贈った言葉が素晴らしかった感動したと言って手土産持参で文字入力の見習いにちょくちょく訪れては柴父の心痛も癒してくれる。 警備のバイトで稼いだお金を皆使ってしまっているのではと心配したらビタミン豊富な天然蜂蜜をコーヒーの大瓶に一杯詰めて持参、滋養を取るように又気遣いの言葉もかけてくれる。貧乏なのは柴父家一軒だけなんだ。 自分史のCD―Rや製本を親戚、知人、友人に送る。その返礼の言葉に酔う「泣いた、笑った、感動した」と、この上ない賞賛の言葉を浴びる。何故、現役時代に書かなかったの? 今からでも遅くないから新聞にちょくちょく投書をして下さい。 長崎に住む幼少の友から便りを貰う、卓球の練習中に転んで肩の筋を切って入院中だが退院したら中学時代の恩師を囲んで同窓会を長崎市内の在住者を中心に開催する予定。先生は柴父に会いたいと言っているし皆も貴君に会いたがっているので是非出席するように日時は追って連絡するとある。 2月12日土曜日。椎田綱敷天満宮へ梅見に三女が連れて行ってくれる。女房と友人、柴父の四人で甘酒を飲みながら梅花の下を散策する。1~2分咲きの花と蕾をびっしり付けた一枝は風流心を掻き立てる。 眼鏡を作り直したら肩こりが無くなったと女房はしきりに感謝する。買い物の帰りにその眼鏡屋さんで遠近両用の眼鏡を作ってもらう、出来上がりは10日間位かかるという。老眼が進むと近視はそれなりに軽くなると店長さんの御説に、へ~そんな仕組みに面玉の構図は成っているのかと感心したら、時々立ち寄って目の測定をする事を盛んに勧める。何だ眼鏡の押し売りか。 2月26日土曜日18時30分よりNHK地球ラジオに次女が出演。世界中に親しまれている柔道、空手、合気道などの日本武道はスペインでも人気があり愛好家は、年々増えているが日本とは少し違った部分があるようだ。ちょっと変った武道の親しみ方について上手に解説する。 2月27日、農事センターへ梅見に家族で行く。枝垂れ紅梅の並木道に心を洗われる、白州梅園の紅梅は今が盛りだったけれど白梅は少々早かった。昼食は回転寿司で賑やかに食べたが妻子の健啖ぶりに口をあんぐり、柴父は貝汁を飲んだら、それで満腹。割り勘でなくよかったよかった。 貴殿の達筆で繊細な文章を読ませて頂く度に元気もりもり勇気100倍泉の如く湧き上がります。妻子のお小言を神妙に拝聴して、それを忠実に守って健康老人を目指します。120歳まで、お互いに頑張りましょう。 では又。楽しい便りを待っています、私も陽気な春の便りを送れるように努力いたします。 奥様、お譲様、お孫さんにくれぐれも宜しくお伝えください。 #
by syoshinori
| 2005-03-02 08:38
2004年 12月 13日
アドバイス、当時の写真に心当たりがお願いします。
自分史。 自分の誕生日も知らないのか ァハハ と女教師の大口が学級全員の前に響き渡ったのが長崎県五島の魚目村立魚目小学校5年生時代。 帰宅後即、おっが(俺)誕生日が、あるのか? バアちゃん子は祖母の目を白黒させた、懐かしくも切ない記憶が斬新だ。妻子の誕生日祝いを欠かした事がない元はここら辺からあるようだ。 更におまけがつく、満州の四平街で昭和13年12月12日生まれだと祖母に教えられて何の疑いを起こす事もなく高校へ入学した。 田舎の高校だから無事に済んだが、今後は戸籍記載通りに12月3日生まれを名乗るように優しく、担任のカバ(本名小島)先生が頭を撫でて下さった。 つい先日に学歴詐称が一時マスコミで話題になったけれど自分が有名人なら履歴詐称の罪に問われかねない。名もなき生涯でよかったよかった。 3歳の時に満州で父親を無くして父の郷里である五島に家族4人が身を寄せた。祖母も7人の子沢山の上に孫まで加わっての大所帯で、日常が会話どころの騒ぎでは、とてもとてもなかった事は容易に察しられる。 中学卒業で終わるご時世に村の有志は、小さな村に高校を新設する運動を熱心に展開して頂いた。お陰様で貧乏のどん底生活ながら贅沢すぎる教養を身につけられた。上高第3回卒業生を今でも誇りに思っている。 昭和32年に島の高校を卒業と同時に八幡製鉄所に就職。1週間の教育期間中に、豪快で巨大な工場群を真近に見せられて夢の中の出来事としか捉えられなかった。 鉄1㌧作るのには、その数倍もの水が入用で郷里の有川湾よりもデッカイ人工の溜め池の河内貯水池や養福寺貯水池を眺めて、本当の水だとは、到底信じる事は出来なかった。それでも不足で川からの送水や、海水を淡白にして使用、戻水設備等によりそれに対応していると、教えられて怖じ気ついてしまった。 さらに本事務所、体育館、病院等々を自家用バスで次々に見学して、その巨人設備に言葉を失ってしまった。自身喪失した無垢な青二才を憐れみに思ってくださったのだろう教習所の教官は到津遊園地に案内して気分転換を図る粋な取り扱いを取ってくださった。 名指しで到津遊園地の感想を教官に聞かれて、入園は八幡市の到津町だったが退園は小倉市の井掘町だった到津遊園地の名前は聞いたが動物園の名前は、なんじゃろうと尋ね返した。 熟慮に熟慮を重ねた教官は「五島は狭いからのー」と言う名答を引き出した。 配属先。戸畑第一圧延課整理掛、工程管理班、記録工を命ず。「神武景気」の好景気で浮かれていたら昭和33年の不況「なべ底景気」を経験する。昭和34年、35年には「岩戸景気」と未曾有の好景気を謳歌する。 白黒テレビを初め、電気洗濯機、電気冷蔵庫などのいわゆる「3種の神器」を中心とする「電化ブーム」が起こり、オートメ夫人がふえた。こうして「消費は美徳」、「消費は王様」という言葉がもてはやされた。 八幡製鉄鐵所に於ける昭和31年に始まる第二合理化工事は、戸畑地区の高炉、転炉、分塊、大型岸壁の新設、熱延、冷延設備の増強など、海を埋め立てる敷地造成と並行して、直線型のレイアウトを持つ銑鋼一貫製鉄所として建設が行われた。そしてその後、相次いで誕生したわが国鉄鋼各社の臨海新鋭製鉄所建設のモデルとなった。新しい生産管理システムの導入によって、戸畑製品の生産管理は、鉄鋼業界でも異色の存在として注目を浴びることとなった。 当事の状況は木下恵介監督によって映画化されて「この天の虹」で全国に上映された。題名は、うつろ覚えなので正確性に、欠けるが八幡の空は7色の煙であったのは間違いない。主演は高橋貞二・久我美子で川津祐介のデビュー作でもあった。 終身雇用が約束され、公害も問題になっていなかった時代でなければ成立しない作風は、今見ると奇異に感じるかも知れない。そんな時代があったのかと感じとれたら、今が一番若さと美貌が満ち溢れている事は請負だ。 薄板製品の将来性、高収益性に着目して、戸畑地区にストリップ工場を主体とする最新鋭の銑鋼一貫工場の建設を企図したものであった。これら新鋭設備群の総合力を最大限に発揮させるために、新しい管理方式が、管理局臨時戸畑企画部において検討され、昭和33年9月、ライン・アンド・スタッフ・システムを全面的に取り入れた戸畑製造所が発足することとなった。 戸畑製造所における生産管理のスタッフ組織として、工程調整課、工程課、試験分析課の三課から成る工程部が新設されたが、この工程部設置の主な狙いは、生産管理の統一性を保障して、正確納期の確保と設備の最有利な稼動を図るということにあった。 工程部は、その実現のために工程管理機能を、現場から管理センター内に設けられた工程調整課へ完全に吸い上げて、徹底した生産管理の中央集権化を指向することにした。と同時に、工程課所属の工程員を工程調整課の神経系統として現場の機械設備の周辺に配置し、第三者的立場で現場の情報を細大漏らさずキャッチして、中央へ迅速にフィード・バックすることが考えられた。さらに、管理センターと各現場を結ぶコミュニケーション手段として気送管が新設され、また、実績収集のためにPCSが新たに採用された。 当初、工程調整課は、工程調整掛一掛のみによって構成されたが、第二次合理化計画基づく新規設備の相次ぐ稼動に対応して逐次拡大され、昭和34年、銑鋼調整掛と圧延調整掛が設置された。次いで、翌35年4月圧延調整掛は、熱延調整掛と冷延調整掛とに分けられ、さらに同年12月、メッキ部門のウエートの高まりを受けて、メッキ調整掛の成立をみている。 昭和37年、それまで熱延調整掛が持っていた月次生産計画作成機能と材料調整機能とを分離し、前者については新設の圧延計画掛が担当することとして、計画作成機能の独立・強化が図られた。 一方、工程課は、第一・第二・第三の各ストリップ工程掛と積出掛の四掛をもって発足し、各種生産実績データの記録と工程調整課への迅速な連絡、さらには時々刻々の物流調整を受け持つこととなった。その後、新規設備の稼動と生産規模拡大に伴って膨張を続け、昭和35年前後には、新設の製鋼工程を含め、五掛665名の大所帯となった。 昭和36年末より急落した鉄鋼市況は、そのご立ち直りの気配を見せぬまま、深刻な不況を迎えることとなった。この時期を境に、鉄鋼市場は、売り手市場から買い手市場へと大きく転換し、販売競争は激化の一途をたどったため、薄板製品についても、短納期注文、小ロット注文、ならびに納期確保材著しく増加した。 さらに、国内不況による輸出比率の増大もあって、生産管理体制は、一層の精度向上を強く求められこととなった。その対応策として第一に上げられたのは、電子計算機の導入であった。 生産規模の拡大と小口注文の激増により、注文件数が倍増し、それまでの人海戦術を主体とした管理が行き詰まり気味となったため、これを契機に電子計算機の活用が図られた。その結果、まず受注処理と能力検討を含めた月次計画の電算化が実施された。 次いで、それまで日常業務のなかで非常に大きなウエートをしめていた材料請求業務の電算化が着手され、昭和40年4月から、メッキ~熱延部門が本番実施されている。 また、自動車産業の著しい成長に伴ない、一部の国内自動車メーカーから、従来にも増して厳しい納期管理と品質向上を求める声が強くなり、これに対応するため、いわゆる「ジャスト・イン・タイム方式」が案出されたのもこの時期であり、既に名古屋工場(昭和36年稼動)では戸畑から冷延コイルを供給し、この方式を実施していた。 さらに、国内市況の不振を輸出によって補うという販売方針が採られたため、戸畑製造所における輸出比率は急速に高まり、輸出面でも、進度管理強化のための諸方策が相次いで実施に移された。 一方、このような長期にわたる不況下においては、それまでのように受注明細を一カ月分を十分に確保しながら生産を行っていくことが困難な状況となってきた。加えて、輸出製品のインプットが旬別に大きくバラツクといった新たな問題の発生もあって、従来の月単位の区切りでは精度の高い管理は不可能であることが明白となった。これに、対処するために、本社販売部門との間に旬別の能力バランス計画を取り決め、実行インプットはこれを基準とする「旬計画」の概念が新たに採り入れられることになり、月次生産計画の作成手法自体も、大きな変革を余儀なくされるに至った。 生産管理手法が変化する一方で、組織もまた、変遷を重ねている。昭和37年前後には、戸畑製造所の粗鋼生産高は当所の五割近くを占めるまでになり、工程調整課の業務スパンも拡大の一途をたどったため、昭和38年同課は、銑鋼調整課と圧延調整課とに分割された。 次いで翌年、圧延調整課は、販売環境の変化に対応するため、従来からの四掛に加え、熱延製品調整掛と薄板調整掛とを新設して、材料管理・納期管理の一層の強化を図ることとなった。 昭和39年12月の八幡・戸畑両製造所体制の発足に伴ない、工程部は戸畑製造所生産業務部として生まれ変った。と同時に圧延調整課は製品調整課と名を改めて、注文進度管理機能を成品課から吸収することとなった。 それまで、本社からの注文明細は成品課が受け付けてロールプランを作成し、圧延調整課がこれに基づいて生産計画を立案、実行していたが、販売競争の激化に伴ない、精度の高い納期情報が要請されるに 至ったため、実際に作業条件や材料状況を把握している圧延調整課に進度管理機能が集約され、ここに受注から生産計上までの一貫した管理機能を備えた製品調整課の誕生をみることとなった訳である。 その後、同課は亜鉛メッキ第四号ライン(昭和41年)、ボンデ第三号(同42年)の稼動を契機とする、メッキ調整掛の亜鉛メッキ調整掛およびブリキ調整掛への分割を経て、七掛を擁することとなった。 生産・進度管理の出発点となる材料請求業務の電算化については、昭和30年代後半より検討が進められ、昭和40年11月、熱延~出鋼までが漸く完成しており、同時に、チャージ編成業務も電算化されている。これらの完成によって、慢性的な業務過多のため極限状況に置かれていた製品調整課の業務負荷は、大幅に緩和されることとなった。 これに引き続き、増産への対応、君津建設要員の捻出などの要請から、主務職の三交代勤務の廃止が検討された。その対応策として、昭和40年、生産管理機械化推新班が設けられ、番別予定表を初めとする調整業務の電算化に一層の拍車がかけられることとなった。 各番内の注文残管理機能の工程員への移管も同時に進められ、この結果三交代勤務は昭和42年から段階的に廃止されて、45年11月に全廃されるに至った。 しかしながら、生産管理システムの電算化が進むに従い、それまで個々に実施されてきた電算化が相互に一貫性を欠き、その後のシステムの開発に支障をきたすという、新たな問題が表面化してきた。そこで、昭和43年9月から翌年7月にかけて検討が重ねられそれまでの電算化を踏まえて、電算化の将来方向についての基本構想が固められた。 その主な内容は、工程別枠管理方式、一貫管理ナンバー体系、一貫進度ファイルの運用などである。これ以降の電算化についてはすべて、この基本構想に沿って推進されることとなった。しかしその実現は、君津建設のためこの検討メンバーがそっくり転勤するといった事情もあって、両製造所制が廃止され、生産業務部の統合まで時期を待つことになる。 昭和45年3月の富士製鉄との合併により旧八幡製鐵(株)時代、全社の半分近くを占めたこともあった戸畑製造所の粗鋼および鋼材生産は、粗鋼で15%、鋼材で11%と大幅に低下し、更に、合併のメリットの一つとして「交錯輸送の排除」という方針が打ち出されたことにより、国内製品のインプットについては、関東・関西といった大消費地から遠い戸畑は、極めて不利な取り扱いを受けることとなった。 加えて、昭和33年の発足当初、最新鋭を内外に誇った戸畑の設備も、建設以来12年を経たこの時期には、もはや新鋭とは言い難く、全社における戸畑の相対的な比重は、著しく低下するところとなった。 このように、戸畑を取り巻く環境は合併を境に一変したが、計数部門、技術部門との緊密な連携の下、建設以来長年にわたって培ってきた極めてち密な生産管理の伝統は、いささかも揺るぐことなく受け継がれ今日に至っている。 一方、この時期には、昭和40年代初めより始まった生産管理システムの電算化による要員の合理化も漸く一段落し、現行の一課七掛が成立している。 まず、昭和46年2月、戸畑製造所発足以来続いてきた工程課が廃止され、製品に関係する工程員のみが、製品工程掛として製品調整課に編入された。 工程員制度については、昭和40年代に入ってから、生産性向上という観点より要員の合理化が進められ、昭和42年既に工程課は、製鋼工程掛と製鋼分塊工程掛をラインへ統合し、また積出掛を出荷調整課へ移管して、第一・第二・第三の各ストリップ工程掛へと縮小していた。さらにその後、八幡製造所・堺製鉄所での工程員廃止の動きに呼応して再度見直しが行われ、その結果、業務内容を生産管理上必要なものに限定して、240名からなる製品工程掛として再出発することになった。 昭和46年6月の両製造所制の廃止に伴なう八幡・戸畑両生産業務部の統合に合わせて、製品調整課は、戸畑製品調整課と改称するとともに、度重なる要員合理化によって掛としての体をなさなくなった熱延製品調整掛と亜鉛メッキ調整掛とを廃止した。また、スパイラル鋼管に関する調整業務が、昭和43年4月、八幡鋼管(株)の吸収合併に際し、熱延製品調整掛に取り込まれていたが、昭和46年4月の中津工場の吸収合併を契機に、翌年1月、鋼管調整掛として独立することになった。 また、生産管理システムについては、昭和46年6月に発足した生産管理システム企画班によってそのレベルアップが図られ、昭和47年4月の全社統合システムの実施と期を一つにして、一貫進度マスターの完成をみている。さらにその後、各システム間の不整合を解消するため、また、週休2日制の実施、女子化の推進、大手自動車会社の九州進出といった環境の変化を先取りする狙いもあって、昭和49年、薄板生産管理システムの確立を図るための諸検討が開始された。 しかしながら、成案は1たん取りまとめたものの、昭和52年4月から全社一斉に実施されたCAPS(全社管理単位統合システム)、さらに、その後の新三製鋼工場、CAPL(連続焼鈍一貫処理設備)などの新設備の稼動といった差し迫った当面の課題に追われ、昭和51年10月より実施された材料補正業務の電算化の完成をみたのみにとどまらざるを得なかった。 昭和54年4月の新三製鋼工場の稼動により、鉄源の戸畑への集約は一応完了したが、将来当所の主力工場として位置付けられるべき戸畑地区のストリップ系列については、現在やっと抜本的改造の緒についたばかりである。現時点における設備の老朽化・陳腐化の度合いは、極限状態に近いものと思われ、現在における生産管理の混乱の大半が、これに起因すると言っても過言ではない。 そもそも戸畑のストリップ系列は、20年以上前の第二次合理化計画によってその基本型が完成され、爾来その時々の要請に応じて設備の追加、改造が繰り返されてきたものであるため、現状では、生産・品質・コストなど、あらゆる面で不都合が顕在化し始めており、それが生産管理を非常に難しいものにしている。 まず、生産面では、設備自体の老朽化による故障の頻発はもとより、設備相互間および設備本体と付帯設備との間の不整合、さらには能率に関する計画値の慢性的未達など、もろもろの悪条件が重なって、生産達成は著しく低下してしまっている。これに対応するため、一貫注文消化能力算定の手法として「工程調整率」という新しい考え方が導入されたことは記憶に新しい。 次に品質面では、不合・不適材の発生が年を追って増加し、ユーザーにおける戸畑製品の評価も下位に位置付けられるなど、相対的な品質競争力は、低下の一途をたどっている。したがって、材料請求業務あるいは重要ユーザー向けの特別管理業務は増加する一方となり、これが生産管理を一層煩雑なものとしている。 また、生産達成率の低下と品質競争力の低下は、当然コストの上昇を来たし、これが、新鋭他ミルとの比較を通じ、生産管理に有形無形の圧迫を加えていることも忘れてはならない。 以上のような背景から、昭和53年以降、ストリップ系列全工程にわたって、「体質改善」の名のもとに、能力増強・品質向上のための諸改善工事が相次いで実施されたが、折りしも薄板製品の需要が内外ともに絶好調の時期にあたったため、工事を行いながらフル生産を続けるという未曾有の試練に直面する結果となり、戸畑製品調整課の業務は、一層繁忙を極めることとなった。 そこで、業務量軽減対策の一つとして、昭和53年11月、それまで各調整掛に分散されていた不合・不適材管理業務を、管理センター内に新設された製品工程掛機動工程を班に移管し、処理の迅速化・一元化を図ることとなった。 この背景には、設立当初戸畑における生産管理の神経系統として位置付けられた工程員の職務機能が、主務職三交代の廃止に伴なう番別予定表作成業務の取り込み、さらにはその後の電算化の伴なう調整掛業務の一部流れ込みもあって、徐々に拡大してきていたという事情があった。 さらに昭和54年10月、新熱延ミル建設のための検討要員の捻出を直接の契機として、熱延調整掛および冷延調整掛の日程予定作成業務も製品工程掛へ移管され、管理センター内に新設された作業進行管理班が担当することとなった。 #
by syoshinori
| 2004-12-13 16:49
2004年 12月 11日
柴父の漢字・熟語・諺集。
スペイン巡礼讃歌をCD-Rで、じっくり味わった。腹の底からズッシン、ズッシンと響き渡る声量に聞き惚れて、何かを思い出そうとしたら涙が込み上げた。 涙してまで必死に記憶を取り返そうとあが足掻き苦しみもがいたのは、何になのだろう。あぁ、そう、あの時の事だ、それに相違ない。“幼友達のナカムラ君が活躍している故郷アカデミー男性合唱団の発表会を故郷の公会堂まで応援に行ったその日の出来事。” 司会者が、この曲は、団員のナカムラ様が奥様との出会いの場面に登場した曲だそうですと、幼友達を紹介した。そのチャンスを逃さずにタイミングよく、「ナカムラ! キバレよ !」 と、柴父が客席から声を張り上げて叫んだら会場がどっと沸きたった。 満座を一気に盛り上げる事は誰にも真似の出来る事では無いよ、素晴らしい男よ。大仕事を故郷で、よくぞ成し遂げてくれた。生涯自慢して回っても構わないよ。あの言葉とタイミングは忘れられないよ。永久不滅だ。乗せられて、持て囃された高級お世辞の多弁に、このお人好しは、さらに有頂天に磨きがかけられ輪をかける。 厳粛な宗教曲を演じ厳かな雰囲気の場面で素っ頓狂な声を張り上げやがって。何こけやってんだ、良い年重ねて。大変なことをしてしまった、それも今ごろになってやっと気が付くとは間抜けも、まぬけ トンピンもよいところだ。 悪態は家庭内にも伝染、お経の原点はミサ曲だと次女に教えられたと、なが~い、ながい間信じて疑わずに何の不自由もなく過ごしてきたのに、最近になってクラッシック原点説を優しい恋女房が唱え始めた。その大変身振りに五臓六腑が煮え返る。 さらに「ボケ、 なす」と、追い打ちを機関銃のような速射で浴びせられ続けても無抵抗主義を貫くその見事な強かと、手口は石川五右衛門並。 しっちゃかめっちゃか混乱した頭のままでも、いんぎん慇懃で横柄な態度は度胸満点。「これは、これは大変失礼つかまりました」 「へ~」 「そうなんですか!」 「真似上手な器用な坊さんが、きっときっと昔むかしの大昔には、おられたんだ」 そうだそうだ、きっとそうだ。 大嫌いな妥協で大妥結を余儀無くさせられて苦笑いの捨て台詞を吐いて、その場を丸く治める。この状態は果てしなく続く。 懐かしい幼少の日曜学校は村で1~2番を競う大きな建物のお寺、先生は村一番の頭脳の持ち主和尚さん、そこでは沢山のことを学んだ。唯一覚えているのは貴重な念仏の一言のみだけど健気なにも孫に、それを授けることで、ご恩返しの一端や真似事が出来やしないかとを思い立って早速ビデオチャットで挑戦を試みた。 いやはや驚きました、南無阿弥陀仏と孫にてほどき手解きを重ねる度にミサ曲を歌っている自分がそこにある。ミサ曲を謳ってやると読経を唱えてる真摯な姿がそこにもある。 探究心が人一倍強い欲深い柴父はモーツアルトに原点を見出そうと身構える。表紙が素晴らしく綺麗なCDだったので密封のまま後生大事に宝物箱の奥深く保管したのは昨秋の午後だった。月日時間はさすがに5年日記を紐解かないと定かでない。 傷が付かないように、壊れないように、それはそれは慎重に取り扱った。柔らか~く、やわらか~く 次に 優しく、しなやかに、それ以上に心も砕いた。 人に言えない艱難辛苦を味合いながらも楽しみも得た。宝物は磨けば磨くほど光り輝き、どんどん頭を垂れる品物なのだ。後世に、もっと光り与える気持ちが在るのならば、そのまんまな状態で残す工夫が大切だ。 これからの課題は保管状況が最大の難関、遠慮なしに次から次へと息つく暇を与えないで優秀な人材に宿題をじゃんじゃん出すべきだ。敢えて苦言を呈する。 「過ぎたるは及ばざる如し」先人が残した貴重な財産だ。過敏な防衛はご法度だよとの戒律なんだ。わスも見事にすってんころりの大失態を先日舐めさせらた。 孫可愛さは何処も同じ、一つ穴の狢さ。素適な音楽を母胎に聞かせたら、頭が良くて愛嬌がある美男美女の産み分けが容易になる。これは天の声だとの強制言葉にも、すぐに乗って疑いの余地は全くはさまなかったし、はさまれもしなかった。 今思うと詐欺師とは惚れ惚れするほど見上げた人間に見えるものだね、そうかもね。随分横道に逸れました、ごめんなさい。すぐ戻るね。 暗号なしの設置だが警戒厳重のはずで、そのつもりで安心しきって宝物であるモーッアルトのCDを放りぱなしにして居た。簡単に取り出そうとして驚いた小さな保管場所なのに目的のCDケースだけが顔をみせず。慌てれば慌てるほどに混乱に拍車をかける。 世間体をはばかる小心者故捜査願いを公にすることを躊躇する。初動捜査ミスの指摘を関係者になじ詰られるけれども反論のしようがない。縺れた糸はますますもつれに縺れる、これは、自然が為す生理現象の化身内だろうと思ったら気が少しだけだが軽くなる。 気楽な身になれば肩の荷も軽やかになり、頭と足の回転も滑るように速くなる。「風が吹けば桶屋が儲かる」あの悪名高い微分積分は得意ちゅうの得意の分野。訪ねたい恩師は手の届かない黄泉の国。 大事な探し物は、なにですか。そのCDでは、ないってば。 #
by syoshinori
| 2004-12-11 11:31
2004年 09月 30日
肝臓へ転移。
夏は暑いにきまっとるとお叱りを受けるのは重々分かっているにもかかわらず「暑いなぁ」とつい挨拶を交わしてしまう、それ程今年の夏は特別異常な近年にない酷暑でした。 酷暑に痛めつけられて、めっきり衰えた身はな萎え果て青息吐息の人が多い市井で焼酎の力を借りて独り善がりな気勢を上げる不逞の輩が居る。 誰あろう。アルコールが頭の天辺から足の爪先まで浸透し尽くし、肝機能障害や糖尿病で昏睡状態に陥る寸前まで追い込まれ、病院で散々痛みつけられ踏みにじられた、その人です。 本人の意に反してnonアルコール生活を続けさせられたら、血糖値は標準値に下がり肝機能の値も正常に戻った。小さな行為で大きな成果を上げた、いや~その逆じゃないかと付き添い人は、かしまし。論文にして学会で発表したらノーベル賞も夢ではない、鈍感男の神経を逆撫でする。 地位や名誉はどうでもいいことだ。大切なのは健康だよと謙虚にボソボソ本音をうそぶき、地球が破滅する状態を見届けてから黄泉の国へ旅立つよと、どこかで聞いたような名言らしき物を言い放つ。まずは反省をすることだ、例え反省が反省に終わってでもだと、逃げ足だけは先にちゃっかり確保する。 賞罰にこと殊の外関心を示し茶の間の話題が弾むのに意外性を感じる。性懲りもない男の身体、悪夢の体験を白日の下にさら晒すことで、救われ喜ばれる “人“ や “物“ が万に一つでも発生すれば、この上ない名誉のことだ。 理解に苦しむ文面がしばしば登場すると監修者にお叱りを受けるが片言をアチャラ語で喋る、かわゆい孫の影響が大、深く考えないで軽く読み流して欲しい。 大上段に振りかぶって早々に2004年前半を振り返ってみることにした。 正月のまつりごとを無事に済ませて総合病院へ定期検査に行く。肝、膵臓を初め諸々の数値が異常に高いのに仰天、糖尿病の悪化を懸念して運動と食事療法に専念する。通院は4週に1度定期的に実施し採血検査を繰り返す。 3月に入って第四期の胃癌、それも肝臓や腎臓への転移どころか骨まで犯されている恐れがあると医者に宣告をされて第一巻の終わりを覚悟する. 覚悟はしたものの、よくよく考えてみたら諦めるには、まだまだ早過ぎる年齢であることに気が付いた。 「とにかく やってみなはれ。やる前から諦める奴は、一番つまらん人間だ」(南極越冬隊 隊長 西掘栄三郎) 病院を変えて心機一転を図ることにする。 人様の役に立つことを知らない男は、この時とばかりに張り切って、この身体を研究材料に使って癌撲滅に役立てて欲しいと、よい格好をしたつもりでした。けれども転医院先の医療関係者は総力を上げて私に健康を与え、それを育む道まで丁寧に指導をした上に励ましの寄せ書きまで頂戴しました。 執刀した主治医 黒川副医院長から励ましのお言葉を頂戴した。 生は心。与えられた生命をどう生きるかは心の持ち方です。 黒川 嘉勝。 兄から叱咤激励を頂戴する。 ガン闘病中を読ませていただきました。驚いています。八月一日に来島するとのことだったので健康をとり戻したことと思っていました。 これも神仏が与えた試練だと思います。耐え抜いて家族のためにも生きぬいてください。 私も良い方にと解釈して生きたいと考えています。何が何でも力になり支えてくれるのは家族です。病を得たお陰でなにやら家族の絆が強くなったように感じています。 兄弟揃って逢う日のために頑張りましょう。 孝子さん、娘さん達の心労は測り知れないものでしょう。くれぐれもよろしくお伝えください。 満雄より。 好則様。 「よ~し」 こうなったら百二十五歳まで生きてみせるぞと新たに欲を覚える。 5月。 15日に退院する。がん闘病中を書く資料集めを始め、反省を込めながら退屈しのぎの執筆活動に入る。 43日間の空白でパソコンキーは思うように動いてくれない、忘れっぽいのは生まれつきよと早くも人様の性にする。 *がん闘病中ご笑読ください。 きんかんの実が鈴なり、どこの家の庭先も黄金色に輝いている、その路地をキョロキョロ見回しながら女房と毎朝、昭和池公園まで歩く。この年齢になって仲睦まじくなるとは少々気恥ずかしい気が無きにしにもあらず。 次女一家がスペインより帰国する、初孫との対面。孫のためなら、なんぼ金を使っても惜しくはないと の賜った先輩の顔がちらつく。 婿殿は滞在期間11日間をパソコンやデジカメ等の機器類設定にフル奔走。お陰で現代文明の最先端の恩恵を蒙る。毎夕ビデオチャットで海の向うに住む孫と顔を逢わせながら、あ~うんの呼吸で会話を楽しむ。 6月。 ホタル乱舞の一報に婿殿を天頼寺川、貴船神社等に案内したが姿形みられず。美術館より戸畑の夜景を見せるが、見晴らしの良い場所はアベックに占領されている。帰宅してぼやき、自棄酒を所望するが女房の強力パンチに敢えなくダウン。退院後の禁酒禁煙は続行中。 到津遊園地に久しぶりに出かける。突然の山羊出現に孫驚く、記念撮影に絶好のタイミング逃さずパチリ。 5日。 夜宮公園で菖蒲祭り。 7日。 次女家族スペインへ帰る。見送る時にスペイン北部にある巡礼のメッカを旅しに近々訪れる約束を交わす。 貫山山麓に破竹の竹ノ子を堀に、ご近所の方々と連日精を出す。 14日。三女の誕生日。年齢を聞くのを忘れたふりをする、しんどい。 20日。若松の高塔山付近一帯で紫陽花祭り。グリーンパークでは地の魚貝類、地野菜のバザーを開催三女の車に詰め込んで帰る。 22日。女房一泊にて大腸検査、ポリーブ2個除去。100人中に2~3人にポリーブが出来るらしい、温床があるので食事に気をつけるように言われる。 西鉄バスのグリーンパス65を購入する。3ヶ月壱万円で乗り放題。 7月。 暑中見舞いを出し、名刺を作り直す。 四字熟語の解説をパソコンに入力する。ルビーを振る途中で文字化けする、ワードの本社に問い合わせて、すぐに修復したが、その仕方をメモするのを忘れる。処理のしっぱなしで歯止めをかけない悪い癖だ。反省。 昭和館にてハリーポッターを観る。 リバーウォークにて北大路魯山展を鑑賞。 断酒の影響か食べ物の好みが変る。アイスクリーム、モナカ、シュークリーム、すっかり甘党に変身。 婿の両親栃木より来訪、急きょクーラーを取り替える。 女房は、ボケ防止対策に頭の体操の本を買う。 三女、幼稚園よりカブト虫を持ち帰る、夏休み対策。 高校野球を見に行く、桃園球場、小倉市民球場へ。小倉高校戦を負けるまで毎試合観戦する。 五島へ帰省するスケジュールを立てる。観光、教会の案内をインターネットで調べる。向う三軒両隣りにコピーして上げる。 庭木の剪定をして貰ったら、丸坊主になる。玄人は凄い。 お隣りさん、ヨーロッパ旅行より帰る、旅先からの絵葉書一日遅れて着く。 腹部CTを造影剤を入れて検査する。検査結果は1~2週間後の予定。 8月。 今年は台風の当たり年。五島への帰省2度も中止を余儀なくされる。その都度、船便や宿の予約を取り消す。 リバウォークにてダーバン2 を観に長女が連れて行く、女房と3人で鑑賞。館内は時間、座席ともに予約制 で慣れないと、とても入れそうにない。 インターネット検索早業、ジャストホーム3のソフトを買う。 友人より自画像を送ってくる。その筋のプロになることを薦める。 義兄が大分のお墓参りに女房と三女の義姉を誘ってくれる。更に足を伸ばして別府に住んでいる長女の義姉を見舞いに行く。 8月15日。 近隣に住む友人、知人の家族の初盆にお参りに行く。 8月24日。腹部CT検査結果を三萩野病院へ聞きに行く。肝臓にパチンコ粒大の腫瘍が見つかる。 歯医者で口内炎を治療する、1日で終わる。 8月28日。大手町にあるムーブ館にギターとテルミンコン演奏を女房、長女、と聞きに行く、テルミンコンの楽器を初めて見る。楽器に直接触れずに電磁波を利用して演奏する。名画のシーンを解説してテーマ-曲を弾いて聞かせる、太陽がいっぱいのラストシーンに感動。 8月30日。三萩野病院に再度入院する。 9月。 9月1日。大学病院の先生の執刀で下腹部に穴を空け、膿みや出血を吸い出すチュウブを挿入した後に 栄養補給を断つための血管の結着を数本する。手術後6時間は仰向けのまま、横向きも禁止、麻 酔も禁止。さすがの辛抱家も音を上げる。 9月4日。手術後、初めて風呂に入る、恐る恐る傷口に水をかける。 9月7日。孫の書いた絵と写真を送って来る。便秘していたが大便多量に排泄、爽快になる。 9月8日。下腹部に2度目の穴空け、肝臓にある腫瘍付近まで管(ビニールドレイ)を通して抗がん剤を腫瘍に直接投射するための装置らしい。これが最新鋭の医学治療法だと話してくれる。前回同様に6時間地獄の苦しみを味合う。 9月11日。膿みや出血を吸い出す装置のビニールドレイを抜き出す。NHK放送のプロゼクトXを差し入れ。テレビカード1000円券購入、20時間みれるらしい。 9月15日。抜糸する。 9月16日。婿殿誕生日、携帯電話にてメールを打つ。 9月17日。抗がん剤を肝臓に投射する。痛みも痒みもないのに拍子抜け、これで効果があるのかと贅沢な悩みを看護師さんに投げかける。副作用は個人差があると先生が説明してくれる。バス停近くまで歩いて本屋を探す。 9月19日。友人の孫さんが中学校最後の運動会、病院をこっそりと抜け出して見に行く。 創作ダンスUFOを全員が力を入れ、一糸乱れぬ演舞をする。それは、それは、見事のもので厳しい練習の成果を遺憾なく発揮してやんややんやの喝采を浴びる。学校崩壊が騒がれているけれど、本当の事だろうかと疑問に思う。 9月21日。退院する。娑婆の空気は素晴らしい。 女房孝行をするつもりだ。 #
by syoshinori
| 2004-09-30 05:19
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